It is not natural that it is natural.

久々にバイトやっていますが

報告書を書くときにね、ぼーっとしててね、「ちょうぶんどっかい」という文字をかこうと思って、「長文続解」と書いて、あれ?なんかおかしいと思う。どこか違う。
そこで、ボールペンの上から修正液で売の部分を消してみる。普通修正液で文字を消す場合―文字は全体のバランスが大事だから―全部消すわけだけど、糸があまりにうまく書けたので、あえてそうしてみる。
そして書き直すと、またもや「長文続解」となる。どこかおかしい。
同じことをもう一度やっても「長文続解」。

やっと気づいたよ。物事、うまくいかなかったら、あたりまえと思ってたところを疑うといいね。そういう例。押してだめなら引け!
ただし、多くの場合、当たり前のことを疑うのが難しい。
もっとも、日ごろから疑うのはもっと良くないのだが。



そんな僕の、当たり前ではない当たり前が当たり前ではない当たり前。
今僕を不安にするのは恵まれているゆえの悩み。
もしもっとずっと金がなくて、才能もなくて、どうしようもない人間だったらと思う。
もちろん僕が金持ちで天才、というつもりはないけれど、そういう面ではまぁまぁ恵まれている方だ、とはいえる。少なくともそのことで深刻な事態に遭遇したことはない。


金と時間がたまって、社会がそれを許容してくれたら、僕は東欧の貧困地帯で過ごしたい。
そういった地域での深刻なハングリーから生まれる文化を肌身で感じたい。
そして、最低限の金だけ持っていって、帰る見通しもつかない、旅なんてもんじゃない、そこにしばらく住むことにするの。出家みたいに、全てを日本に置いていくのさ。趣味も嗜好も(一からとは言わず)ゼロから、東欧的に染まる。
そこから何かが開ける気がする。僕の甘ったれた考えや、上辺だけの親切心、世の中に対する知ったかぶりがなくなると思う。


当たり前が僕には強すぎる。
当たり前を放棄しようと思っている。
それでも僕は当たり前に執着している。
それは僕の体をセメントで固めるようなものだ。見苦しいばかりでなく、一番辛いのは僕なのだ。