外部不経済、僕の怒り

実は、多くの大学生は負け犬であるとあえて言っておこう。
高校のとき、嫌いだったある男から学んだほぼ唯一といっていいくらい賛同できた意見だ。
子供のころ、何かしら夢を抱くものだ。
野球選手になりたいとか、お笑い芸人になりたいとか、音楽家になりたいとか。
そういったものを実現する(出来る)人は圧倒的に少ない。
そして多くの人はサラリーマンやらになる。否応なく。サラリーマンにすらなれない人もいる。


大学は多くの人にしてみれば就職するために勉強する場であろうと思う。もちろん勉強というのは学校の勉強だけでなく人間関係だとか、自分をいろいろな意味で高めることを含んでいる。
しかしどうあがいても、多くの大学生は甲子園を目指せないし、フィギュアスケートで世界一になったり、プロ野球選手になったりすることすら不可能だ。
したがって、多くの大学生にとって大学とは職安・ハローワークみたいなもので、とりあえず、夢をかなえられなかった人が最後に行き着く場だと思っている。


しかし、それは悪いことではない。知っての通り、大学はとても楽しい場所だ。そして決して負け犬のための場所ではない。大学生=負け犬ではない。僕が言っているのは、負け犬のための場所ではないのに、負け犬が蔓延っている、ということだ。


大学に入ってぼーっとしてるやつが負け犬なのだ。そして大学生の大半はぼーっと生きている。貴重な時間を無価値な何か(もしかしたら無価値どころかその価値は負である)と代替している。
そしてさらによくないことは、負け犬どもの多くは外部不経済であることだ。要は単に自分らが堕落しているだけでなく、その効果を他に波及させている。ニートのほうがなだましだ。無価値でも価値は負ではない。


この様な一般論を述べた後で自分の身の回りについて話すが
慶應義塾にとって、必ずしも日吉は大学ではない。三田からの学習が大学課程だと思っている。
したがって、日吉での負け犬の横暴には寛容しよう。
しかし、三田は大学なのだ。必死で明るい将来を勝ち取るために切磋琢磨するための場なのである。
しかし実情といえば、授業中はたいていの授業で私語が蔓延る。大変迷惑である。彼らの話の内容に耳を傾けることはない。何しろその内容は無価値で、問題は話し声というより文字通り「騒音」である。まさに外部不経済である。


なぜ義務教育が存在するのかといえば、多くの国民が初等教育を受けなければ他人に迷惑が及ぶからである。義務教育課程において、教育を受けないことは外部不経済である。
しかしながら、高等教育過程においては義務は課されていない。やる気のないやつが出席することが外部不経済なのだ。やる気のない輩が存在しなければ、もっと質の高い教育を実践できるのだ。だからやる気のない者は全員その時点で外部不経済だ。はっきりいってゴミと同じだ。


もう一度いう、ゴミくずとなんら変わりないことに気づけ!
教室にゴミを放置して授業が受けられるか!


しかも、ゴミの排除にもコストがかかる。
なんて邪魔なんだ。
本当に邪魔だ。
何度だって言ってやる、ゴミとなんら変わらないんだよ!邪魔なんだよ!無価値どころかその価値は負なんだよ!
というかゴミなんだ!







あと日吉行った!一年生が若い!みんな18歳だって!若い!若い!若い!