朝飯前

練習は朝飯前。
というか朝食の時間などない…今日は半日以上歌っている。このままだと明日歌えません、そして今から深夜練です。


http://www.nicovideo.jp/watch/sm306771
後半がおもしろい

最近、読者に、内容が濃い、と言われた。
僕が小説を読み込むようになってはや五ヶ月。この間に読んだ本は推定で100冊ほどだと思うが、僕は近頃その影響があってか、感情を言葉、特に文字に表すことが増えたと思う。
文字は時に音よりも説得力を持つ。百聞は一見に如かずのことだ。
自分で話すときに、そのレトリックがめちゃくちゃか、もしくは自分でもわからないほど複雑であるために相手に説得力を感じさせないケースは多々ある。
しかし、文字はゆっくりと考えてその結論として出すことが可能である。だからこそ、文字は数々の試行錯誤を経て説得力を持つ。


しかし、僕はそれに頼りすぎている。
大事なのは、百見は一聴に如かずの場合もあるということだ。
ここでの聴くは聞くではないのだが。
僕は明日、歌うことを通して何かをうったえたい。
僕は自分の感情を直接文字や言葉にするのではなく、歌の中での音として、表現したい。これは一つの試練である。
おそらく明日、僕は今自分の心の中に抱える三つの要素を歌の中でうったえるだろうと思う。もちろん、それが何なのかわからなくてもいい。ただ、聴き手に、自分が「何かをうったえている」姿を刻みたいと思っている。種も仕掛けもない、そこにあるのは感情とそれを相手までに伝えるためのツールとしての空気の振動だけだ。


これはあくまでも仮説なのだけど、僕の命がそんなに長くまで続くという保証はない。からといってすぐに死ぬ可能性も小さいだろうが。
僕はDrive my carのドラムをたたいて、ちょうど去年の今頃、旧友が「カウベルを工夫したんだよ」って喜んでる姿を思い出したんだ。
彼はその人生で何を伝えたのか
僕は去年の三年ティブラのあとの国立リバプールでの彼のドラミングが忘れられない。特に彼のロールオーバーベートーベンは、それが何かはわからなかったけれど(そしてその内容は恐らく三つの悩み;うち一つは僕にもわからない)、とにかく彼が「何か」大事なものを伝えていたことは感じた。


しかし、僕は結局それが何か、はわからなかった。そしてもう二度とわからない。
ターミネーター2で、ターミネーターがチップごと燃え尽きてしまったのと同じように、もうこの世の中に存在しなくなってしまった。


しかし、僕はここにいる。
僕は生きている限り、「何か」を伝えねばならない。大事なのは中身ではない。実は外見なのだ。外見など、中身で決まるのだ。
第一、どうして外見を判断しないで中身を判断できようか。



僕は彼の歩いた道をなぞり、追いつき、追い越そうと思った。