梅干についての省察

作るまで、食べるまでに何年もかかっている梅干がある。
梅干を見ている。
色がついている、というより染み付いているというべきだ。色だけじゃない。梅干独特の味とか、においとか、それどころか、梅干としてのキャラクターが染み付いている。長い時間をかけて、梅干は梅干になる。
梅干は同じ環境で作っても、実は一つ一つ味わいが違う。それはまさに染まる過程で、それぞれの梅干が得たものによる。いや、もしかしたら受動的なものだけでなく、梅干が主体的に何か活動することを通して、一つ一つに違いが現れるのかもしれない、とにかく、梅干は一つ一つ味からキャラクターまで異なる。
そして厄介なことに、長い時間をかけて染まっているので、ちょっとしたことでは梅干は梅干に他ならない。だからこそ梅干は梅干たりえるが、逆に言うと梅干は他ならぬ梅干でしかない。


僕は梅干、20歳。
僕は明太か昆布か納豆になりたいけど、決して変わることがない、ただの梅干。
納豆じゃなくてもいい、せめて、しょっぱくない梅干になりたい、そしてそのために何度も水で洗い流されてみたけれど、所詮僕は長年漬けられた生粋の梅干。
僕は梅干をやめたいのに、僕は梅干でしかない。
いくつかのおにぎりに包まれたこともあるけど、それでも僕は梅干。
おにぎりは確かに暖かく僕を包んでくれる。おにぎりに包まれた僕は幾分自分に自信を持てる。そしておにぎりは気持ちいい。
でも、おにぎりから出された僕は、裸の種。



梅干のすごいところは、核心(種)まで染まっていることだ。
色も、味も、においも、そしてくどいようだけど梅干としてのキャラクターも。
柿の種とりんごの種を間違っても、梅干の種は間違えない自信がある。


僕は梅干の種。硬くて食べられないの。だから捨てられるの。
人間はやわらかい、おいしい部分しか食べないのさ。そもそも人間の食べた部分は僕が成長するために、お母さんが残してくれた哺乳瓶なのに。
そして僕は捨てられる。



一軒の家庭から、一年間にいくつの梅干の種が放出されるのか、そういう統計はないのかね。




今日はジェイソンだかジャクソンだかの日ですね。
そんなことより、僕にとっては梅干のほうがずっと大事なことなのだが。



梅干って俺のことだよ。
気づいた人いるかな、僕は僕で僕は俺だったことに
気づいた人いたらさ、俺じゃなくて僕に話しかけてきてよ。
そしたらさ、そこには俺がいないんだ。そこには僕がいて、俺はいない。


何人かいるの。僕に気づいてる人は。でもほとんどの人は僕を見て俺だと思ってる。ある人は俺と僕の違いについてそのことを理解しようとしてくれない。
でもね、そこに俺はいたけど俺はいないの。そしてそれは同時に僕がいなくて僕がいることになるの。わかるかな?



とにかく僕は梅干。